好きの度合い

年末に手術を受けることになって、久々に大型連休を取得することになった。

最初ナーバスにでもなるのかと思ったけれども、特に問題もなく、普通に過ごしている。人に伝える時が一番、どういう顔をしていればいいのかがわからないなと思ってしまう瞬間だった。この場に似つかわしい表情とは。

あまり私は重大にことを捉えていないので、人に気遣って元気に振る舞っているわけでもないし、気丈な態度で臨んでいるというものでもない。私にとっては結局その程度の認識であり、それ以上でも以下でもない。なんなら突発性難聴になった時の方がもっと怖いと思った。このまま音楽が常に半分になっていくことの方が怖かった。

今回は、たくさんお休みができるということでただの連休を満喫するくらいの軽い気持ちでしかいない。それほど深刻な状況ではないと判断しているが、もっとも心配していたり、深刻に感じて不安に思う人も多くいるのかもしれない。カウンセリングとかを受けることになり、本当にどうしていたらいいのかわからず、モジモジしてしまった。

何か話さなきゃと思って、特に不安とか心配とか何もないけど、なんとなく気を遣ってしまった。何かなんとか会話をしないと!みたいな感じで、プライベートなのに、仕事モードのような変な感じになっていた。

 

もし、私の状態が重篤なものだったとしたら、これから先に待ち受ける人生において、こんな気持ちで毎日毎日時間を削り取ることは望ましくないと一念発起して、転職を考えることになったかもしれないなと思う。今勉強していることが本当に楽しいので、できればこの道へ進みたいと思っている。

あまり記憶にないんだけど、アメリカの作家の小説であった一節だったと思う。イギリスだったかな。

病院で余命宣告された末期癌の患者がバイクで全米一周の旅へ出たら、ガンが縮小して治ってしまった。というような奇跡の逸話をTVとかで見ることがある。末期で亡くなる人との違いはよくわからないが、そんな奇跡が起きてしまう状況なんて、どう考えても、その人がこれまで生きてきた状態が間違いだったとしか言いようがない。

と書いていた。生き方を間違っていた、ということなのかなと。

これからどのくらいの長きに渡り生活をし、生活のために仕事をすることになるのかはわからないけど、仕事に対してどのくらいの面倒臭さを許容できるのか、どのくらいの我慢を強いることができるのかは、どのくらいその仕事に対しての思い入れとか、好きとかそういうものに左右されるんだろうなと思う。得るものが大きいとかもあるだろう。今後、自分の役に立つスキルが身につくとか、生活に大きな潤いをもたらすとか、そういうことなら多少の我慢は許容範囲かなと思う。

私はどのくらい許容できるのかなと考えることがある。転職を考えるひとが多いというのはいいのか悪いのかは知らないが、私も考えることがある。転職は早い方が有利なんだと思う。実際に転職するのかどうかは置いておいて、それでも自分のやりたいことが見つかったなら対応していくのが健康的ではないかなと考えるので、副業でもなんでもいいので、進めていこうと思う。それに頃合いが来たらもっと考えることも考えようかなと思っている。

 

毎日の生活の面倒臭さとか、人と生活する時に、今までの自分の生活習慣や様式が違うことでストレスが溜まったり、新たな視点で過ごすことができたりと色々だと思うが、でもそれでも自分にとって望ましくない状況だったとしても、相手のことをどのくらい好きなのか、好意的に感じているかで、望ましくない状況を打破するための手段や、こちらが譲歩する分量については大きな差が生じると思う。

相手のことがどのくらい好きかというその尺度だけで全てが決定していく。それは結局、人だけにとどまらないし、色んなことに言えると思う。結局自分がそれに対しての思い入れと気持ち一つなんだから。好きって素晴らしい。

 

最近、初対面でお会いした方がとっても感じが良くて、お話しながら、彼との結婚生活を妄想するくらい短時間で入れ込んでしまった。彼には妻子がいるので、そんなことにはならないんだけど、もしお互い独身だったら、かなりの瞬発力で口説いたかもしれない。

一緒にコーヒー飲んで、そんな顔で私を見てくれるんならいいなーと思いながら楽しい時間を過ごした。一目惚れとは少し違うんだけど、一緒にいると穏やかでグッとくるタイプの人。たまにいるよね。ほんのたまーに。

口説きたくなる人がいる。他の人とどう違うのかはわからないけど、私の中の理性というか、大人の私が私の行動を制御していることを感じるね。