彼岸の夕暮れ

最近気温が低い。いつもこんなに涼しかったっけ?と思う。

台風のせいかもしれないが、ひんやりした風が部屋に入ってきている。少し湿気を含んでいるが、特に暑くはない。

もうすぐ命日。お彼岸だしお墓参りに行ってもいいかもしれないなと思う。前はもっと暑かったなと感じる。あの重苦しい夏を過ごした時期は、とても窮屈に感じていて、これ以上はないと思うくらいに痛烈に記憶に残っている。

でも年月が過ぎると、重苦しかった事実は覚えているが、鮮明に突き刺さっていたトゲみたいなものは今や消え去ったと思うようになった。人が亡くなって半年くらいが本当に辛いと思っていた。確かに事務手続きを必死にするとか後片付けをする時期がひと段落すると、急に仄暗い罪悪感と、喪失感が襲ってくる。直後にあった、滝のような勢いの悲しさとか、息苦しさとは形を変えて、それはやってくる。

罪悪感は人によって違うんだろうと思う。後悔とか、懺悔とかそう言ったものになる人もいるんだろうが、私は罪悪感が一番辛かった。何をしても自分を責めた。意味のないことだと分かりながら罪の意識からは逃れることができなかった。

もっと優しくしておきたかったとか、親孝行しておけばよかったという思いのほかに、なぜ、自分が病気にならず、父親だったのかとか。父親は2度と歩くことはないのに、私は自分に靴を買っている。とかそういう「どうしようもないこと」の全てに罪の意識が滲んでいた。

その意味を持たない罪の意識は数年続いた。なぜ自分が死ななかったのか、なぜ生きているのか、こんなに悲しいなら一番に死にたかったとか、そういう気持ちもあったかもしれない。2度と自分の知っている人は死んでほしくなかった。それは今でもそうだ。

父親のことを考えると勝手に涙が溢れてきた。思い出話をすることができなかったし、誰にも話すことができない状態だった。10年経過して、ようやく思い出話を平気な顔でできるくらいになったと思う。それでも、時折、思い返しては涙を押し戻さないといけない時がある。

人が亡くなるとはそういうことなのかもしれない。悲しいとか寂しいという気持ちはいつまでも形を変えて、私の中に巣食っている。それは見慣れたもので、完全に私に同化している。黒子とか、痣みたいなものなんだろうなと思う。

それでも、今でもやっぱり悲しい。また会いたいと思う。会えるなら会って、話をしたい。それから、優しくできなかったことを後悔していると伝えたい。多分、私は赦されたい。

 

星空を眺め、焚き火をしながら、あったかいマグカップに入れたコーヒーとか飲んで、まったりしたい。もこもこに厚着して全然寒くない状態っていう条件は必須だ。私はインドアだし、キャンパーじゃないけど、それはやってみたい。ロッジでもなんでもいんだけどな。