折り合い

言ってはいけない言葉があると思っていた。

持ってちゃいけない感情なんてない、とgezanは言った。それはとても魅力的な言葉だと思った。

私は思ってはいけないことがあると思っていた。小さい頃に言われたからだ。人には徳をつむことが必要で、徳を積むってことは、人に対しての感情や行い、発する言葉なども全部関係しているらしい。多分、本当にちゃんと話を理解していたわけではないけど、なんとなく子供ながらに理解した内容を、三子の魂って感じでずっと私は心のどこかに潜ませて生きてきた。

結構大人になるまで、心の中で思う言葉に対しても言い訳をしながら生きてきた。こんなことを思ったのは私の心が狭いからです、本当はこんなこと考えるタイプじゃないんです、すみません、もう考えません。みたいな、私だって誰に言い訳しているのかはわからないが、そういう罪悪感を持って日々、心の中で毒づいていた。

時々、人が毒舌というのか、人を揶揄する言葉を呟くことを、本気じゃないからカウントしないみたいな、よくわからないルールに基づき、聞いていないふりをしてみたり、一人でその言葉を心の中で反芻していた。私ならそんな言葉を使ったりしないとか、そんなこと思ったらいけないとか、そんな風に思っていた。と言って、私は別に徳を積んで極楽浄土へいきたいわけではない、それにさほど信じているわけではない、私にとっての徳をつむ。というのは親が私に施した躾の一環であり、宗教的な意味は特にない。私がほとんど意味を理解していないことが何よりの証拠だ。ただの躾でしかなかった。

幼い頃に言われた言いつけを私は結構大人になるまで守っていることが多い。それが私を真面目に見せていたりする要因なのかもしれない。

家に帰ったら手洗い、うがいをしなさい。という子供の頃の習慣は大人になっても習慣として残り、自宅や職場に入るときに手洗いうがいをしていた。今になって、それがまた習慣として定着しているので、よかったと思う。

言いたい言葉は本当に言う必要があるのかを再度考えなさい。

言った言葉は取り消せない。人の心につけた傷は人からは見えない。足を踏まれた痛みは踏まれた人にしかわからない。

いつもお喋りだったし、親からは口が達者だと嗜められた。偉そうな口の聞き方をするなとも言われた。私は何が生意気で何が偉そうに聞こえるのかがわからなかったからだ。

私は言いたいことのほとんどを口に出すことができなかった。私は確かにお喋りだったし、対して意味のないことをベラベラとしゃべっていたと思うし、そういうことなら沢山、苦にも思わず話すことができた。お話しするのは嫌いではなかったからだ。

でも子供の頃からだが、自分が本当に言いたいことをいつも言うことができなかった。私は末っ子だったので、家族からよく決めつけられた。どうせ、お前はそう思っているんだろうとか、こうしたかったのだろうとか、推測で決めつけられることが多かった。私の意見など本当にどうでもよかったのだろう。私は普段はどうでもいいことを話すことができたが、少し真面目な局面や、真剣な家族の会話になると話すことができなかった。

おばあちゃんが、そんなことないよね、違うよねえ。って助け舟を出してくれたりすることがあったけれど、私は何も言うことができなかった。自分の気持ちや本当に考えていることを話そうとすると、泣き出してしまいそうになって、言葉を紡ぐことができなくなってしまう。

自分の考えを話そうとするといつも喉の奥や胸が詰まって、言葉を発そうとすると一緒に涙が溢れそうになって、嗚咽とともにきっと何も喋ることができなくなるだろうなと思えた。

いつも私は自分の思ったことが話せないという子供時代を過ごした。

いつから自分の考えを話すことができるようになったのだろうか、結構大人になってからだと思う。人前で自分の考えを話す機会も多くなったし、面接対応をするとか初対面の人と話す、自分が主導権を握る場面が増えて、それでそういった私の癖?がなくなったのだろうと勝手に思っていた。

私が泣きたくなってしまったり、話をするたびに泣いてしまう話題は、私にとってのウィークポイントであり、私にとって悲しい話であることが原因なのだと思っていた。

父親の話とか、家族の話とか、自分の中の罪悪感の話とか…?でもこういった話をすることはほとんどない。そんな機会がない。

だから、私は人と話す中で、泣き出したりすることがなくなったのだと思う。仕事での私の考えなんて、はっきり言って私の人生の考えとは関係ない。私の仕事上の人格は普段の私とは乖離しているし、仕事上、必要な人物であり、必要なことを考えることになっているからだ。私の人生のほとんどを占めている仕事ではあるが、私が本当の気持ちを持って過ごしているわけでもないと思う。うまく言えないけれど。

そんなときに、先日泣きたくなることにぶつかってしまった。

私はその場におらず、完全に又聞きをしただけだ。人のチェックミスを咎めるときに、目が不自由な人を揶揄するような言葉を使ったという事実を聞いた。

その場にいなかったし、私に向けられた言葉でもなかった。その言葉は放送禁止用語であって、差別用語なのかはわからないが、私は決して使わないし、使っている人をみたこともない。とっても悪い言葉だとしか言いようがない。聞いて気持ちが悪く、気分が悪い。

大体、目が不自由な人って誰を指すのだろう。私は近眼だ。コンタクトかメガネがないと怖くて外を歩くことができない。乱視の近視だ。裸眼で月を見上げるとでっかいでっかい月がどんな時でも大抵まんまるのようなボワボワした形で浮かんでいるように見える。

医療技術が向上しているので、私はコンタクトレンズを毎日装着して何不自由なく生活を当たり前にしているが、医療技術がそこまでない世界なら私は目の不自由な人に該当すると思う。そう言うことなんだろうと思う。

片耳だけど難聴になって、左半分の音が消えたこともある。結局私の聴力は戻ってきたけれど、戻らなかったら半分聞こえていない。

 

人の状態や、見た目、特徴とかを揶揄する言葉がある。差別用語の決まりはわからないけど、私はその言葉のもつ嫌な空気や、後ろめたい力を感じると使わないし、聞きたくもない。

その不穏な言葉を発した人は私の上司だったらしい。人伝から聞いて、それからずっともやもやして過ごしてきた。このモヤモヤが一体何という感情なのかを自分自身で説明することができなかった。

私は目が不自由(近眼ではあるが)ではない(それをいう時の定義から外れている)、それに私の大切な人も家族も私に関係している人にそういう人がいるわけではない。それにその言葉は私に向けられたわけではないし、直接聞いてもいない。もはや無関係の完全な大外からの外野の私が(当事者が何も声をあげていないのに)とっても悲しくなって、休憩時間に他のスタッフからその話を聞いて嫌な気分になり、よくない言葉だと繰り返し、泣き出したくなるのを我慢して、うちに帰ってからもモヤモヤし続け、どう対処していいかわからず、この気持ちに説明をつけることができないまま、過ごしている。

 

私の上司のさらに上の上長に、私は外野だと言い訳をして、上司本人ではなくて、会社としてこういう言葉を公共の場面で使用することは控えるようにという通達を出すことができないかを打診しようかと思っている。私が直接会社のそういう機関に言ってもいいんだろうけど、大外の部外者であることがどうも引っかかる。直接聞いていないのに、まるで聞いたかのように話をしてしまうかもしれないし。

それに該当の上司と話をするときに、この人そういうことを普段から考えているのかと思いながら平気な顔をして会話をすることも、苦もなくできるんだなと自分のことを理解した。

正直、私はこの気持ちが何なのかを結局説明できない、どうしてこんなに怒っているのか悲しんでいるのかを理解できない。モヤモヤしている。整理できない。折り合いをつけることができていない。