冬のアヒル

本を読みたいなと思いながら、ただ思っているだけで、全然読書をすることなく日々を過ごしている。もはや片想いだ。ただ、何を読みたいのかはよくわかっていないので、買おうと思っても全然どうしたらいいのかわからない。大体何を読みたいのかがわからないし、眠らずに読めるとは思わないし、心落ち着けて読める機会があるとも思えない。

子供の頃は、本が大好きで、たくさんの本を読んでいた。漫画の読み方は分からなかったが、本は読み方が決まっているので、簡単に読むことができた。毎日読んでいたと思う。国語も本が読めるので好きだった。好きだったのは児童図書で、不思議なお話的なものをたくさん読んだなと思う。外国の話がとりわけ好きだった。

本を読むと、映画を見るように映像が流れてくる。映像を追うことになり、読みこぼしが発生するため、好きな本は何度も繰り返し読むことが多い。繰り返しても新しい発見があるくらい、読み飛ばしているのかと疑いたくなる。なんせ映像として捉えているからというのが原因なのかもしれない。

もしかしたら勝手に自分の都合の良い映像を補完している可能性もなくはないかもしれない。本を読むにはある程度の時間があって集中することができたら読みたいなと思うが、寝てしまいそうだ。

観たかった「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」を観た。ライ麦畑でつかまえて は2,3回読んだことがある。私は結構何度も読むことがあるので、それほどたくさん読み返した本というわけではない。映画は面白かった。創作する側は理解されない場合も、理解を得て共感される場合も、どちらにしても大差はないのだろうなと思う。

音楽をやっている人と話したときに、音楽は結局、大売れの道を選択したいときには、それ相応の対応をしないと世間でいう大売れにはならないと言われた。それは大衆とか王道とかっていうものとは少し外れているので、誤解しないでもらいたい。誰も別にお年寄りから子供まで知っているバンドになりたがってなどいないし、多くの人々の大半が口ずさむような曲を発表したいなんて思っていないだろうから。

そんなのディズニー映画とか、大ヒットアニメとか以外では起こり得ない現象だし、それは作る曲を変更したところで、手に入るものとは別のものだ。もっと大きな別の会社が動かないと発生しないものだからだ。

売れる音楽には一定の基準があるのだろうが、それを満たしていようと売れるわけではない。それに今はそんなふうに誰かにとっての慣れ親しんだ音楽であっても売れるとか、お金に変わるというものでもないかもしれない。

それでも変革をする必要があり、それができなければ、一定数のお客さんで終わることになる。そういうものだと言われた。音楽をやっている側からすれば、多くの人の耳に届き、それがお金に変わることは、想定内では望ましいのだろうと思うが、私からすれば、そんなものは果たして望ましいのか分かりようがない。生活に困らない、余裕が持てるということは望ましいと思うし、そうであって欲しい。でも好きな音楽を好きな状態で聴きたいと思う気持ちは、誰にも譲れないし、そうでなければ、ライヴなんて行く意味すらない。

私は1人で、ひとり分のチケット代しか捻出しないし、フィジカルが出ても、手に入れるかどうかは、気分によるし、それに買ったとしても1枚しか買わない。どんな音楽が好きかなんて説明できないけど、私は音楽のまとっている雰囲気から好きかどうかの判断はできる。ともかく、そんな音楽なんて私は好きではないし、聴くタイミングがないし、どんな顔して聴けばいいのか分かりようがない。

途中で音楽の話にすり替わってしまったが、サリンジャーは一定作を発表したのち、平穏な生活を求めて、出版せずに自分のためだけに執筆したと言っていた。戦争が何もかもを壊し、全てを変えてしまったのだろう。人は死ぬ。確かに必ず人は死ぬ。だからって、どんな死に方でも同じだなんて思わない。

執筆をする人、音楽を作る人、映像を作る人、絵を描く人、発表する人もいればそうでない人もいる。自分のためだけに制作をする人も。私なら発表したいって思うだろうなとは思ったが、絵を描いていた時期に、そんな風に誰かに見せることはなかったと思い返した。

人に見せるときに全ては何もかもが変わることを覚悟しなければならない。